手紙
1893年7月22日付 チェンバレン 宛
小泉八雲 Lafcadio Hearn
林田清明訳
七月二〇日の早朝、私は、一人、熊本を出発し、百貫経由で長崎へ向かうつもりでした。熊本から百貫までは人力車で一時間半あまりの距離でした。
そこからは、小舟で蒸気船に向かいます。この舟の舳先は壊れていました。コールリッジの詩にあるような静かな海をゆらりゆらりと四里ばかり進んで行きました。それは退屈でした。そして、停泊して一時間以上も待たされました
私が乗った船の名は太湖丸ですが、着物や浴衣の客が座り込むようになっていて、椅子はありませんでした。船室の暑さときたら、蒸気を使う洗濯屋の乾燥室のようでした。お茶の外には飲み物はありません。象の頭を持った唐獅子の面白い絵の付いた薄い牛革の枕と快適な畳の上で横になりました。
長崎にはまだ暗い午前三時に着きました。苦力がホテルまで連れて行ってくれる約束でしたが、一・六キロばかり行ったところで、どこか分からないというので、手荷物を受け取りました。まだ営業していた車屋に出会いましたので、ホテルまで連れて行ってもらいました。けれど、ホテルの門はもう閉まっていました。背中を門塀にもたれかかったところ、それが開きましたので、
ホテルのベランダまで行きました。そこには、揺り椅子とランプそれに静寂がありましたので、ここで夜が開けるのを待つことにしました。長崎湾の日の出は本当に美しいものでした。――私は古いバラッド詩に謳われているような金色の光線を見たのです。ついにホテルも起き出しましたので、私はやっと部屋に入ることができました。
けれど、ホテルの中はひどい暑さでした。私がかつて経験した熱帯のどの熱さよりもひどいもので、太陽が昇るにつれてますます厳しく、死ぬほどの熱さになってきます。車屋を雇って、街の中を走ってみました。
私は、最も美しい光の中で、できるかぎりこの美しい街を見ました。丘にも登りました。金属でできた新しい鳥居も見ましたが、今まで日本で見たものの中では愚劣極まるものでした。それは、ひどい格好をしているのです。上部が重いように見えて、優雅さなどはなく、全体が黒ずんだストーヴの色をしていました。こんなデザインをした者は、刀で成敗されてしかるべきです。
朝食を摂ると、また出かけました。私の印象では、総じて長崎は今まで見た最もきれいな港です。――それは、画家がエッチングの絵を描き、写真家が写真に撮るような、風光明媚で古風な趣で溢れています。しかし、私が欲しいと思っていた品は買うことができませんでした。西洋の輸入品で探したいと願っていた品物のどれも見つけることはできませんでした。ここには外国人もとても少なく、これといった本もありませんし、日用品も大量購入でないと手に入れることができない始末でした。
しだいに蒸し暑くなるにつれて、スーツを着込んで、このベルヴュー・ホテルに来たことを、ひどく後悔し始めました。西洋式の服や建物の中の居心地といったら、この暑さじゃ、問題外です。ベネズエラの午後の一番暑い時間さえも、これほどまでに暑くはなかったでしょう。このホテルの客たちも暑さで眠られなかったと話していました。暑さに対しては、一杯が二五セントする冷たい飲み物の外には何もありません。私は四円ばかりも飲みました。服を脱ぐこともできず、ちっとも涼しくないので、腹が立ってイライラしていました。
夕方の六時までには、逃げ出す決心をしました。何と言っても蒸し暑さは地獄でした――私は熱いのは好きなんですが、熱さと愚かな習慣とが一体となったものは、もはや我慢の限界を超えています。もし洋服を着て、ヨーロッパ式の建物の中で一週間も暮らさなければならないとしたら、もう狂ってしまうか死んでしまいそうです。私は、今すぐにでも長崎から脱出しようと思いました。
日本式のホテルはいつも快適ですし、裸でもいられます。日本のホテルでは、買いたい物があるなら、探して来てくれます。日本のホテルでは、頼めば、あなたやあなたの連れに、船や鉄道の切符を買ってきてくれて、その上、停車場や船着き場まで見送ってくれます。けれど、野蛮な西洋式のホテルでは、誰も質問にも答えてくれません。
何かトラブルがあって解決してくれるように頼むときに、出来の悪い日本人のボーイが日本語以外には分からないような場合を除けば、尋ねるべき人もいません。私は、車屋を見つけて、日本の汽船会社に連れて行ってもらい、できるだけ早く長崎から離れる方法はないかと、片言の日本語で頼み込みました。驚いたことに、彼らは同情してくれて、早朝三時に私を迎えに来るという手筈が整いました。私は暑いのが収まって、蚊が刺す力を失う頃まで、ホテルの中で待っていました。――それから出かけようとしたところ、外では良からぬ風体の男たちが、「旦那、良い娘がいますぜ」と声を掛けてくるので、――私はまたホテルへ引き返して、むっとしているベランダで三時まで座っていました。そうしたら、日本の汽船会社が男と渡し船を寄越して、連れて行ってくれました。それゆえ、私は彼らに感謝した次第です。
「きんりん丸」(旧知)に乗船して、三時半頃までには長崎港を出ました。三角港からは、百貫港行きの小さな蒸気船があると言われていました。三角港には朝の九時に着きましたが、あいにくとその日は百貫港行きの船の予定がない日でした。
三角には、西洋式に建築され、内装された浦島屋というホテルがありますが、――太陽が蝋燭よりも良いように、長崎のホテルよりもはるかに良いものです。また、とても美人で――蜻蛉のような優雅さがあり――ガラスの風鈴の音ような――声をした女主人が世話をしてくれました。車屋を雇ってくれたり、素晴らしい朝食を整えたりしてくれて、これら全部ひっくるめてわずか四〇銭でした。彼女は、私の日本語を理解しましたし、私に話しかけたりもしました。私は極楽浄土の大きな蓮の花の中心で突然生まれ変わったような気がしました。このホテルの女中たちもみな天女のように思えました――それというのも、世界中で最も恐るべき場所から、ちょうど逃れて来たばかりだったからでしょう。それに、夏の海霧が、海や丘それに遠くにあるあらゆるものを包み込んでいました――神々しく柔らかな青色、そして真珠貝の中心の色たる青色でした。空には夢見るような、わずかに白い雲が浮かんでいて、海面に白く輝く長い影を投げかけています。そして、私は浦島太郎の夢を見たのです。私の小さな魂は、夏の――青い光が滲み込んでいる――海へと漂い始めました。また、妖精の舟には乙女が立っています。この娘は、青い光よりもっと美しく、またもっと柔らかくて、もっと魅惑的です。乙姫様は一千年の時を超えて響いてくるような声で私に語りかけます――「さあ、私の父の宮殿である、南の海の底にある龍宮城へ、ともに参りましょう」「イイエ、ワタシ、熊本ヘ帰ラネバナリマセン――サッキ電報カケマシタデス」と、私が応えます。「それでは、車屋に七五銭だけお払い下さいまし」と乙姫様は言いました。――「この玉手箱をお開けにならないでしょうから、あなたがお望みのときに、また戻ってくることができます。」この白日夢の中に、神々の古い物語についての解釈が浮かんできました。私はその謎と意味が分かったのです。私は、この玉手箱を心の中に深くしまっておきます。それから出発しました。
妻が尋ねます。「長崎のベルヴュー・ホテルにあと一週間滞在しなければならないとしたら、いくらならお承けになります?」
「イヤー、オ金ナンボ積マレテモダメデス。タダ、龍宮城デ千年ノ間、若イママデ暮ラセルカ、阿弥陀様ノ極楽浄土ヘ行カセテモラエルナラ、別デスガネ」と答えました。
八雲の記に、熊本の三角に今もある浦島屋が出てきます。西洋風で100年も前の建物が現在も残っています。八雲がまるで竜宮城であり、女店主が乙姫さま、女中が女官で美人揃い。良心的な値段設定で、まるで浦島太郎に出てくる竜宮城だと比較したところに文才と学識を感じる本です。しかし、当時はエアコンもなければ涼をとるものがない中での長崎の旅は体がこたえたのでしょうね。八雲の妻が高額な給金でうだるような暑さの中で過ごすならば一体いくらか?などと、たとえ話をしています。八雲は二度とごめんだとこたえ、オチをつけています。日頃の仲睦まじい夫婦関係を垣間見ることができる文章です。
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