
セツが次男巌の妻の翠に告白したこと
結婚式を経ずに家へお手伝いにいくようになった。
ハーンと一緒になった後、人が皆「洋妾(ラシャメン)ということが一番辛かった。
明治25年隠岐旅行の際に、ハーンが連れ帰り可愛がった【正義少年】が「洋妾(ラシャメン)の唄」を歌った時、ただちに少年を実家へ送り返した。(長谷川洋二『小泉八雲の妻』より)
西洋人の妾は普通以上にさげすまれる。桁違いの高収入に対する悪感情なのか。
ハーンの松江時代の俸給は100円。県知事の次ぐ。
東大では400円
現在の価値で、10,000倍
100円=1,000,000円 400円=4,000,000円

当時、雑婚と呼ばれたんですね。国際結婚のことを。いかにも正当じゃない感じなんですね。そういう言葉だったんです。

西洋人との結婚に対するやっかみが強いのかな、、、あまりお金には縁がない家でした(けどね)。

そうですね、八雲は東大を解雇されてから本当に大変な生活でした。その後早稲田に勤めますが、半年ですぐ亡くなっています。
八雲が亡くなってから本当に大変でした。
でも、アメリカの人達が助けてくれています。ソウルメイトだった、エリザベスビスランドが、早速、八雲の全集を作って、その印税が家にくるようにしてくれたり、
あるいはミッチェルマクドナルドという関東大震災で亡くなるんですけども。彼が一生懸命奔走して支援してくれたり。あるいは八雲の親友だった人。
それから大変だったのが、戦争中に資産を凍結された。
八雲の本はアメリカで出版されているから凍結されたら印税収入もなくなって本当に生活に困る、そういう大変な時期もあったんですね。

で、実はその息子達。四人の。
その息子達もそれなりに結構、苦労してるんです。

【一雄】右
うつむきのまなざし
「鮎の子」のペンネーム(アイノコ)
【巌】中央
明朗なキャラクター
同じ境遇の女性と恋愛
【清】
「俺の血管の中で西洋の血と東洋の血が戦っている」
「血が複雑すぎたのだろう」と遺言を残し自ら命を絶っている

東洋人でありたい、日本人でありたいと思う反面、絵を描くにしろ人から見られる視線にしろ、西洋人の扱いをうける。実際は戦時中に鷺ノ宮にいた。だけど、特攻とか憲兵とかが家の周りを見張ってる。私の父、清の息子を海軍に出して戦争にとられているのに、そういう扱いをうける。それはアイノコだったからという苦悩も聞いています。

そっかそうなんですよね。うちも一雄もね、
この写真から見てみると一雄が一番日本人っぽく見えるんです。次男の巌が「あらーイケメンねー」て声が聞こえるのは、だいたい巌の前で皆さん仰られてます。清のほうは、一雄よりもちょっと西洋人ぽい顔立ちかなと思います。
この一雄でさえ、目の色が日本人と違ってたんですね。戦争中相手と目を合わせないように随分苦労したようです。
僕が覚えている一雄っていうのは、凄い猫背だったんです。いつもこう下向いて。
何人か兄弟がいると次男がひょうきんで明るいケースが多いと思いますが、うちもまぎれもなくそうだったんです。
混血の北島メリーさんという方と大恋愛されていて、同じ境遇の方に安心感が抱けていたのかなと思います。

祖父清に関して
祖母シズさんは天真爛漫で父の純も叔母の蘭子も受け継いだようで清の気難しいところはないように思います。
祖母や父は「お父さんこれどうされましたか」といった感じで一目おいて尊敬の対象だったと母に聞いていた。祖母と娘は友達親子のような関係でした。父を想うという小泉清遺作品展をおこなったのですが、その中で、清は自ら命を絶ってしまうのですが、妻シズはお父さん死んでしまうんじゃないかと苦悩して、一晩中アトリエの鍵穴からのぞいて心配していたというエピソードもありました。息子の純さんに好きなものを食べさせて清はお金がなくなって駅で野宿して帰ったというエピソードも書いてありました。芸術家としての清は妥協のない面があった。でも家族に対しては、優しくてユーモアのある祖父だった。

そうですね。皆そうだったかもしれないですね。八雲に際しても家族に対して凄く優しかっただろうし。家族のことを常に考えていましたよね。私の祖父(一雄)も3人の中では気難しいほうでしたし、生真面目で誰とでも仲良くするタイプではなかったし、多分清さんのほうが友達も多かっただろうし、あまり親しい友達も多くなかった。だけども、家族に対しては非常に優しくて私の母も言ってました。「一雄おじいちゃんのお陰で耐えてこれた」って言ってました。小さい家で同居していたんでね。

よく引っ越してます。芸大に行っていた後、食べるのに困ってお兄さんの巌を頼って京都に行き、その後吉祥寺などを経て後年になって鷺ノ宮に行った。
会津八一教授(もとは小泉八雲の教え子)

会津先生という早稲田で清がお世話になってます。会津八一といって早稲田の敷地内に記念館がある方で非常に多才な方でした。そのような方に、清は美術や英語も教わったようです。居候していた時期もあったようです。一雄も皆が関わったような方です。
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