アメリカでは、浮浪者同様の生活を送る。
やっと希望していた文章を書いてお金を稼ぐようになったものの、その後日本に渡り、初めて、ハーンは高給を貰い教師と言う安定した職に就いた。日本についての研究を熱心に行い書籍化することで素晴らしい作品でもあり学術標本としても素晴らしいそれらの本が大きく評価され今日まで名を残している。
彼が亡くなってからも、遺族は彼の書籍の印税で不自由することがなかった。没後、彼が物書きとして、最も収益がでたのかもしれません。
40歳で教職につき、11年半で彼は教職の道を存分に全うしていた。彼の教育は素晴らしいものであった。それは、それまで時折襲ったアクシデントでの苦しい経験から培った精神を軸にしたものだと考えられる。それまで就いたことのなかった教職だったが、彼の素晴らしい観察眼と相手の立場にたった指導はそれまで教職についていた者より巧かった。
ハーンが寄宿舎にいる時分、イギリスとフランスでの非常に威圧的な宗教教育はハーンにとってトラウマとなったようだ。一神教を嫌い、多神教を信仰したいと思っていたその心情をみてもその頃のことが傷になったことが伺える。その実体験から、ハーンはそうはなるまいと生徒の立場にたち、優秀だった生徒に高い本を買い与えたことも多くあり、生徒のために尽くした。観察眼が優れており、以前よりその目と想像力で生徒達の学びのアシストに全力を尽くしたと考えられる。
もう1つ書いておきたいこととして、親友の西田千太郎と出会いはハーンにとって大切な重要な出来事である。
もともとハーンが日本に訪れたのは、日本の見聞録をハーパー社に送るための特派員としてだった。だが、一緒に来ていた絵描きが自身より高い金額で契約していたことを知りその差に憤り、出版社との契約を破棄したためである。その後、帝国大学教授であった「古事記」の翻訳者でもあるチェンバレンに月給100円の松江の中学の英語教師を紹介してもらったことで島根県へ行く。
一方、西田は幼いころから秀才と言われ、松山中学校を卒業し5年教員助手をしていたが、上京し英米人のもとで2年勉強し、独学で心理、倫理、経済、教育の文部省中等学校教員試験に合格し教員になっている。人格も非常に優れていた。
そのような状況で松山中学で英語教師と教頭という立場で出会う。ハーンは日本語が全くできなかったこともあり西田が通訳していた。ハーンが「古事記」や「日本書紀」を読破していたことや日本の文化伝統、神道、精神について敬意を払っていることを間近で感じ感嘆したのだと思える。また、ハーンは高等教育を中途していたが独学で仏語の翻訳が出来る程に語学に強く、そして、西田も英語が優れており勉学や研究、人格、共に高め合える存在だった。
西田と日本の研究のために、田舎にでかけ老人の通訳をするのに窮した西田がもっと他の人に聞いたほうが良いのではと言った際、ハーンは文盲の老人こそが自分の研究で最も知りたい日本の息吹を感じさせる。教育された者は、皆、同じ答えしかしない為、本当に知りたいことではないと言ったハーンのことを、西田は、凄い学者先生が自分の学校に来てくれたものだと思った。
このような西田との関りが、日本に在住し伴侶をもつというハーンの大きな決断の後押しになったと思われる。
西田が亡くなるまで、公私ともにお互いが励まし合い高めあっており、ハーンの数ある出会いの中で影響を与えた重要な人物である。
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