

アトリエは、間口の狭い細長いところで『うなぎの寝床』とうちでは言ってましたけど、自宅の一番奥に別棟で建っていました。幼稚園に入って物心ついた時には自分(達矢さん)の遊び場や物置きでした。清の遺作展をやるまでは、清の作品はアトリエの中にずっと保管されていました。この写真にうつっているような、絵の具がや筆などは既に片付いていました。
18歳までこの鷺ノ宮にいました。父が事業に失敗し、今居たところは両親が中野区の鷺ノ宮から引っ越した先です。

小泉八雲もそうでしたが、色々、清さんも随分引っ越していませんか?

清は、文京区仙谷2丁目80番地というところに住んでいるんです。
万代鉄五郎さん(画家)も文京区仙谷に住んでいて、芸大に通うのに地理的に便利だったのかなと思います。
その後、経済的に困り京都の次男の巌さんのところに行き、そして、中野区の鷺ノ宮に行きつきます。
それ以外に引っ越しのことは、把握できていないです。

清さんの手紙の中では、吉祥寺や武蔵野もでてきています。画業をやる方は中央沿線が多いのかなと聞いています。
うちの一雄一家も引っ越しが多い家で、今の家が多摩川のほとりの家ですが、それまで11回軒引っ越しています。八雲が亡くなったのは、西大久保です。西大久保の家から11軒引っ越して、昭和34年に二子玉川に自分の家をもったわけです。
なぜあんなに引っ越すのかな?と思うんですが。
八雲は、わずか1年3カ月の松江滞在で3回住まいをかわっています。熊本も2回変わっています。神戸だって3回変わっているし、東京も2回変わっています。ニューオリンズの10年間で6回も変わってますからね。
あまり、同じ場所にずっといるのは魂が停滞しちゃうんですかね。アイリッシュ的なエグザイルと鶴岡真由美さんに言わせれば、『積極的自己追放』と訳されますが、そのエグザイルの精神みたいなのがあって、それが子供達にも伝わってるのかな?と思います。

そうですね。
そうかもしれないですね。
会津八一さん

一雄や清さんにとって、
会津八一さんの存在が大きかった。
もともとは八雲の早稲田時代の教え子さんです。八雲を早稲田に招へいする時点で、この会津八一さんが関わっていると言われてます。
大変多才な方で、美術史家であり、英文学の先生であり、歌詠みでもあり、書家、歌人としても活躍し、秋艸道人(しゅうそうどうじん)または渾斎(こんさい)という号で多くの書を書き残されています。

清は、早稲田中学時代に美育部、今で言う美術部に入部するんですがその時の顧問が、会津八一さんでした。英語も教わっていた。いうことを聞かないと時には、今は問題になりますが、鉄拳制裁を辞さぬ教育方針で、鍛えられ、でも凄く愛情をもって接して下さっていて。
後年になって清が、個展を開く時に会津八一さんに推薦文を書いて頂いたことがあって。
『ぼくは、君の作品を見ていないけれども君の個展に推薦文を寄せることに何の異論もない。なぜならば君自身が傑作だからである。』
という少し笑い話のようにも聞こえますが、それだけ信頼されて愛情をうけていたんだなという。
実際に手紙を見た時は、私は笑い話ではなくて実に目をかけて頂いたことに感動したのを覚えています。

そうですよね。一方で厳しいところもあったというところで。清さんはしばらく会津八一さんの家で暮らしていたこともある?

ええなんか。

池田美術館からお借りしたした手紙の中に、
会津八一さんの手紙で「もう清君は送りかえしたい。引き取って下さい。」
という、そんな手紙もあったようです。(笑)

手に負えないという。(笑)

一雄もね、会津先生、会津先生といって尊敬していましたね。
結婚してからも、よくキクエも連れて一緒に3人で銀座をブラブラすることがあったって。これおばあさんから聞きました。
キクエは、会津先生を結構好きだったみたいで会津先生と腕を組んで銀座を歩いたっていう自慢話しを、当時幼稚園生だった僕に言ってました。
随分小さい頃から聞かされましたね。
やはり、オープンマインドで厳しいところもあるけど、非常に温かく懐の深いところがあった方だと思います。
私の父も会津先生を知っていまして。私の父と母が結婚したお祝いだと、会津先生古い木の高砂人形を頂きまして、今も大事に横浜の家に置いてあるんです。正月になると時々出したりしています。
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