八雲は1869年夏頃渡米している。移民列車で5日かけてシンシナシティに向かっている。19歳の八雲は、満員の3等車で水以外何も食べずに1日半、向かいの席の民族衣装を着るノルウェー少女に黒パンとチーズを恵んでもらい、お礼も言わずむさぼり食べ口ごもった。勘違いをされて少女が怒った。
この年の後半から翌年にかけて、ワトキンと出会っている。
当初の会話
ワトキン「ところで、君、どうやって食べていこうと思っているのかね?」
八雲「わかりません」
ワトキン「何か手仕事ができるかね?」
八雲「いいえ」
ワトキン「いったい何ができるのかね?」
八雲「はい、文章が書けます」(熱っぽく)
ワトキン「ふーん、何か食べていける職を身につけることだな。書くことはもっとあとにしたほうがいいな」
ワトキンは笑いながら「君はまだ何も知らんだろう。私が教えてやろう。うちの店(オフィス)で寝ればいい。印刷を教えよう。給料は出せんよ。君は話し相手にしか役に立たんからな。でも食事は出してやる」
公立図書館に通い、読書や物語を書き、牧師トマス・ヴィカーズの私的秘書としてフランス語の翻訳、また、「フラット ・ルクス」の名で週刊誌に投稿する。
翌年の1871年大叔母が亡くなる。受け取るはずの遺産も貰えず、叔母と暮らしていた親戚と絶縁する。
その翌年、下宿で最初の結婚相手のマティと出会う。下宿の台所で女中として働いていた。
1874年にマティと州法を犯して結婚している。
翌年の1875年5月にインクワイアラー社を突然解雇されている。自暴自棄になったと記されている。
1877年10月頃マティとの結婚が破綻している。
八雲はシンシナシティを離れている。貯えもない仕事もない中での無謀な旅立ち。
その後の10月31日のワトキン宛の手紙には、
マティへの自責の念、目の痛みについて述べ、最後に自身の心情をこう綴っている。
「あなたは(手紙を)よく書いてくるなと考えはじめていることでしょう。私もたびたび書いているなと思います。あなたはその理由もおわかりです。多分こう思っておられる。「彼は、今少し憂鬱になっているな。それでとても懐かしく思っているのだな。だが、だんだん全く忘れてしまうだろう。やがて今のようにそう頻繁には手紙は書かなくなるだろう。」と、そうその通りだと思います。私は今、極端な状況の中で暮らし、またそれを糧にして生きています。私は極端な程たびたび手紙を書きました。なぜならば、孤独だからです。それも、極端に孤独だから。
10月28、29、30、31日。11月3日。・・・・と立て続けにワトキンに手紙をだしています。11月も13、15、30日。12月3、9日。1月13日と手紙は続ていています。
シンシナティ時代、定職に就けず放浪していた八雲に寝食を提供し、自身の印刷所で働かせた。印刷技術を教え、仕事の世話をした。
八雲が父親代わりに一生慕い続けた人物である。ワトキンは八雲を可愛がり、彼が書いた小さなメモさえも捨てずに持っていた。そのためワトキン宛の手紙は多く残されており、八雲没後の1907年に八雲の手紙をまとめた『鴉からの手紙(Letters from the raven)』を出版している。
ワトキンは、髪が黒く肌の浅黒い八雲をraven=大からすと呼んでいた。八雲はワトキンのことをold dad=親父さんと呼んでいた。
ハーンは、親父さんと呼んでいたワトキンよりも先に亡くなった。
ハーンの母親はギリシャ人であったがハーンが少し浅黒いのは母親が中東の血も混じっておりハーンも白人ではなかった。しかしながら、当時も今も白人階級の中で生きることは大変なことだったと伺える。
ワトキンの接し方は、まさしく父親といってもいい程の対応をしている。
また後に、ハーンの息子さん3人も日本の戦渦に巻き込まれ、混血ゆえの苦労をしたとハーンの子孫達は答えてらっしゃる。
ワトキンの接し方は、温かい家庭に縁のなかったハーンの基盤をつくったことのように思える。身内と同じように愛情を注いでいるワトキンの人格は、とても素晴らしかったと言える。
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