小泉八雲とあわなかった日本人 “I just hate him,” said Yakumo Koizumi(Lafcadio Hearn).

Human relationships in Japan

He was difficult and his anger would flare up quickly, and even people he became close with often ended up fighting and breaking up with him.

小泉八雲は、気難しく怒りに火が付くと一気に燃え上がってしまい、親密になった人物でも喧嘩別れすることが度々あった。

During his time in Kumamoto, he became lonely due to poor interpersonal relationships, and wrote a letter to Sentaro Nishida saying, “If I didn’t have a family to take care of, and if my son wasn’t so young, I wouldn’t want to stay in Japan for even one more day.” ” he complains.

熊本時代、人間関係がうまくいかず孤独になり、西田千太郎宛の手紙で「面倒を見なければならない家族がいなければ、まだ息子がまだそんなに幼くなければ、日本にはもう一日たりともいたくありません」と愚痴をこぼしている。

その人はズバリ

His name is Nobuyasu Sakuma.

【チェリーの愛称をもっていた、佐久間信恭】

 

At first they had a good relationship, but due to differences in their personalities, their conflict gradually deepened.Then I left Kumamoto.

当初は良好な関係にあったが、性格の不一致により次第に対立を深め、1894年(明治27年)ハーンは熊本を後にした。

In a letter after his retirement, Hahn accused Sakuma of colluding with missionaries to mastermind a boycott of teachers who were better than him, but the truth is unknown.

ハーンは退職後の書簡において、佐久間は宣教師と結託して自分より優秀な教師のボイコットを首謀したと訴えているが、真相は不明である。

八雲が熊本第五高に着任した当初は佐久間のことを優しく賢明な人物だと評して良好な関係を築いていたが、性格の不一致により次第に不仲になった。八雲は西田宛の書簡の中で、佐久間は宣教師と結託して自分より頭の良い教師数人を転出させるように追い込んだ首謀者であり、彼は友人の振りをして近づいてあけすけに話をさせるための策略を図ったのだと書いている(真相は不明である)。八雲が熊本を去った理由は、熊本の土地柄が気に入らなかったことと、佐久間の件があったためで、佐久間とはもう一緒に居たくないから熊本を去ったと西田宛の書簡に書いている。

佐久間はもしかすると、人事を担当していたのかもしれません。八雲が島根から熊本に来たのも、給料が高かったからですが、八雲が来る前に佐久間が熊本に来ています。そのような予算が潤沢にあるわけではないため誰かを首にする必要性は出てきます。佐久間の誰かを押しのけて意地悪をしている様子が、八雲にとっては耐え難いものだったように思います。

その後、佐久間自身も勤務先をクビになっていたり、波乱な人生を歩んでいます。

しかし、大学教授というのは大変のようです。客員教授というかたちで勤務すれば短期間のみの雇用であるので八雲のように執筆などの本業があるほうが収入が安定するのではないでしょうか?

ラフカデイオ・ハーンは幼少から幽霊の見える人であったとも記されています。

怪談=ゴーストストーリーなどを手掛けたのは、そのような八雲自身の体質なども加わりリアルな描写となったのかもしれません。

幼いころ両親が離婚したため彼は叔母に預けられ幽霊がいっぱいいる屋敷で育たないといけなかった。

いつも人形をにぎりしめてる子供だった。

子供のころは幽霊におびえっぱなしだったけど次第に慣れていった。

ジェーン姉さんという従姉がいて彼はジェーンが大嫌いだったのです。というのは怖い地獄の話をするからです。

ある日ジェーンと廊下ですれちがい
ジェーンは彼に向ってアッカンベーをしました。けれど、何故か顔がのっぺらぼうだった。
その夜ジェーンは死んだ。

 

彼の幼少期の話しをしますと、お父さんは軍人であったが異文化で育ったギリシャのリフカダ島でお母さんと恋に落ち反対されたが結婚しました。最初の子どもは亡くなり、その後八雲が生まれるも弟を身ごもっている時に不仲になり八雲と母親はギリシャに帰りました。その後離婚し、弟も生まれましたが、母親は生後すぐ親戚に弟を預けると療養ししばらくして別の男性と再婚しました。その後別の男性との間に4人の子どもをもうけますが、母親自体は精神疾患で療養してその後に亡くなっています。

八雲は叔母さんの家に住みます。

母が去り父親も八雲と住まず、別の娘2人の連れ子がいる女性と結婚します。数年後にその再婚相手が亡くなり父親は継子2人を養いますが病気になりその後亡くなっています。

 

また八雲が寄宿舎の学校に入っている際、お金持ちの八雲の叔母は親戚と住み事業を行いその事業に大失敗しお金が無くなり晩年はあばら家に住んで亡くなりました。その親戚から少しのお金を渡されアメリカに行った八雲は、数年路上で寝たりその日暮らしをしていた時期もあるのです。アメリカに渡った際その親戚とも叔母とも縁を切って八雲は、1人で生きていく覚悟をもった為新聞社で持ち前の文才を発揮しました。

 

彼のお父さんはアイリッシュ。お母さんはギリシャのレフカダ島の人です。
アイリッシュというとイギリスのほとんどの作家がアイリッシュです。音楽や文学にとてつもない才能発揮する人が多いでしょう。アイリッシュ系の特別の文才を彼も生まれつき持ってたのでしょう。
ギリシャ神話が好きで多神教が好きで

小さい時から
一神教が駄目だったそうです。

叔母さんは、とても厳しい人で、厳正なカトリック信者だったので余計に苦手であったといえます。

16歳の時に遊んでいる最中、左眼に縄を強くぶつけ失明しています。八雲は、いつも写真に写る時は、右側を向いたり左眼を手で覆って映っていました。

中学時代1年だけフランスの神学校にやられそのお蔭でフランス語が得意になる。
たった一年留学しただけなのに聡明な彼は、ニューオルリンズではバルザックの翻訳をするまでになります。バルザックを翻訳しながらここで非常に多くのものを学びました。

アメリカにシンシナシティにいた後にニューオリンズで、八雲は黒人の血がはいった混血の女性と結婚します。しかしながら数年で離婚します。当時は、人種差別が激しくあり多人種との結婚は許されなかったのです。事実婚をしていましたが、八雲の中で葛藤がありそれは自身の両親と重なったようです。そして八雲自身は、文化の違いから字も書けない母親と自身と弟を捨てた父親のように自身もこの妻を捨ててしまいました。最後はスープを運んだり献身的につくしなんとか向き合おうとしたこの女性を徹底的に拒否し離縁しました。そして、何もできない弱者な女性と同情で結婚するべきではなかった、自身も父親のようになったことを自責していました。

日本文化に触れたのは、万博でした。心惹かれ日本に興味を持つようになりました。ニューオルリンズ時代は食うや食わずの貧乏なのに図書館通いはやめなかった。
東洋への憧れが日本に来て達成します。そして、ますます東洋の神秘に憧れ続けます。アメリカに居る間から東洋の不思議物語について書いており、古事記などの英文化した書籍を沢山読んでいたようです。

幽霊話を聞くと奥さんに徹底的に語らせました。
「それじゃ駄目です。もっともっと怖く表現しないといけません」夜中まで寝かせてもらえなかったそうです。

神社やお寺に行って徹底的に調べたのか大変な学識です。神主さん僧侶になれるくらい神道も仏教も詳しくお経など日本人よりよく知っていました。日本、中国、インドの歴史の知識も素晴らしい方でした。

54歳の時に、心臓発作で亡くなります。最後の言葉は、「ああ、病気のために・・・」だったそうです。

奥さんと取り残された四人の子どもは、八雲に協力し出版してくれた友人らのおかげで八雲の印税で暮らしていったとのことです。

八雲の人生は、色々な人々の助けで乗り越えられています。

コメント