ゴッホの「ひまわり」なんかはとても有名だけど、
以外に知られてないのが、まったく生前の画は評価されずにお金がなかったゴッホ。
弟(テオ)が画商で、食べさせてもらっていました。
画のタッチは力強く、見る人によっては大きめの点描写で、、、
ちょっと受けつけないっていう方はいると思うんです。そのようなことを聞いたりしました。
ゴッホの画の中に、タンギー爺さんという画があります。浮世絵やら日本画を描いてる画もあって、当時にヨーロッパの日本画ブームが伺えます。オリエンタルが人気だったんでしょうね。
ゴッホが、赤富士や桜を描いています。是非、見てみてください。
印象派のモネだってそうですし、やはり日本の画は、世界をも魅了するほどのものがあったんでしょうね。西洋と東洋がお互いに影響しあう、画も映画も食べ物も、永遠のサイクルがあるでしょうね。
ゴッホの配色が個人的には好きです。青のグラデーションやらそこに黄色を配色したり、ひまわりだって色々な黄色の配色があって、たくさんのひまわりをあの枠の中に描きこむ、あのセンス。
やっぱり好きですね。
有名なのは「耳切り事件」
モネらのポストとして、ポスト印象派という二大スター(今でこそ)ゴーギャンとゴッホは同居していた時期がありました。5歳年上のゴーギャンと同居し画を切磋琢磨しながら描いていこうと、ゴーギャンに声をかけました。
ゴーギャンは最初から乗り気ではありませんでしたが、画商でもある弟テオに画を売ってもらえると打算もあっての同居を開始しました。
しかしながら、ゴッホとゴーギャンは火と氷です。
思い立ったらすぐ行動しないと気が済まず、情熱的でロマンティストなゴッホ。
冷徹なリアリストのゴーギャン。
ゴッホは最初こそ、尊敬する五歳年上のゴーギャンの「想像力を使って描く」ことを実践したり、それまで現実のものを見てしか描かなかったが、ゴーギャンに言われるまま2人そろって同じモティーフを描いたりもしていました。
ですが、毎晩、安酒のアブサンを飲みながら口論するようになり、それがしだいにエスカレートして激しくぶつかりあうようになり、ある日カミソリをもったゴッホが外に出たゴーギャンの前に立ち、ゴーギャンがそれをにらむらとゴッホはうなだれて家に戻り、発作的に左耳の耳たぶの一部を切り落とし、なじみの娼婦に届けました。
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私には、到底理解しえません。
それから、ゴーギャンはアルルを去ります。ゴーギャンにとってこの事件はひとつのエピソードにしかすぎないと思います。
一方ゴッホはこれ以降、数か月ごとに襲う発作に苦しめられるようになり、ゴッホにとってはその後の人生を決する運命の出来事だったようです。
その後ゴッホの人生は急速に転げ落ちるわけですが、
作品は逆にますます鮮やかに大胆になっていきました。
耳を自らそぎ落とす行為はとうてい理解しがたいものはあります。
幻聴、、、あてつけ、、、共存、、依存、、全てだったんでしょうか。だとしたら、とても視野が狭かったのか、やはり芸術家の考えといいますか、常人には理解しがたいものなんでしょう。
その後に、ゴーギャンのひざ掛け椅子やゴッホの椅子を描いていますが、
ゴーギャンという存在を失ってはじめてわかる、心のつながりを感じていたようです。
ひまわりに魅了され、サン・レミ時代に描いていたが、糸杉もこのひまわりを描いたように、「何とかひまわりの絵のような作品にしたいものだ」と弟テオ宛の手紙に記しているように、ゴッホにとって燃え立つようなうねるような、糸杉にも魅了されていたようです。
弟テオの送金でゴッホは制作していましたが、いつしか弟テオは健康状態も悪くなりゴッホへの送金が家庭を圧迫しており夫婦の間にあつれきを生じさせていました。ゴッホはそれに心を痛めていましたが、ただひたすら制作に没頭していました。
描けば描くほど、画材の量が尋常でないゴッホは費用がかさみ、その悪循環をたちきるために残された道は一つしかなくなったという結末でした。
拳銃で自ら。
弟のテオはゴッホの最後を看取り、経済的な負担などの苦しみから解放されたかと思われましたが、心の支えを失った悲しみで精神を病んでわずか半年後に兄の後を追うようにして亡くなりました。
1914年テオの妻ヨーがゴッホの伝記と書簡集を出版しました。
そして、テオの墓をゴッホの隣に移して、寄り添うように2人は永遠の眠りにつきました。
感想
ゴッホは、他の人が何もないと思える風景や人物をゴッホの目を通してとても印象的な画になります。そこに何かを見出し、魅了して描いていくやり方として、生きていくために人間が本能的に自身の人生の承認を深める行為と同じのように感じます。
中でもゴッホはその性格ゆえに、狭く深く他の人では見いだせない領域まで、見えていたように思えるのがゴッホの作品だと個人的に思えます。
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