ユダヤ系のイタリア人である両親から生まれ、林業や銀鉱を経営してとても裕福だったがモディリアーニが生まれた年に倒産しています。
母方の祖父が話し相手だったようですが、とても博学な祖父で芸術や哲学の話をきかせていたようです。
母親の手記に「この子の性格はまだ十分形成されていないので、今自分の意見をいえるところに来ていないが、その態度は知能はあるが甘やかされた子供のそれである。このサナギの中になにがあるのか、もう少し時期がたてば見えてくるだろう。あるいは芸術家?」と幼児期からの才能を見抜いていたようです。
伯父からの援助で美術学校にいっていた。だが伯父が死亡し、しばらくして母が資金を与えついにパリに移住する。
絵画はあまり評価がえられず売れなかった。モンパルナスに移ってからは、アフリカやオセアニア、アジアなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていたが、資金不足と健康の悪化による体力不足などの理由により、途中で断念せざるを得なかったようです。6年彫刻を主に。
その後の1914年から、絵画に専念しはじめ1916年にポーランド画商と専属の契約を結んでいる。
英国人女性と2年の交際で別れ、その後愛人もいたが別れる。そして、1917年ジャンヌ・エビュテルヌと知り合い同棲を始めました。翌年11月長女ジャンヌが誕生しています。1919年7月に、ジャンヌ・エビュテルヌに結婚を誓約しています。
モディリアーニは、貧しく持病の肺結核や大量の飲酒、薬物依存などの不摂生できた生活がたたり、1920年1月24日、結核性髄膜炎により35歳で死亡しました。
そして、ジャンヌ・エビュテルヌもモディリアーニの死去後2日後に後を追って妊娠9か月にもかかわらず、自宅から飛び降り自殺をしました。
2人の遺骸は10年後にようやくパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬されました。
彼の死後、1926年に新聞が彼の作品を高く評価し肖像画に高値がつくようになった。
1歳2か月で両親に先立たれた一人娘ジャンヌはモディリアーニの姉、フローレンスに育てられ後年は美術に携わりモディリアーニの研究もしていました。1984年に死去しました。
モディリアーニの画は、どこか暗くて肖像画が多いです。人物画は顔が長く伸張して描かれています。これは、モディリアーニの造形美です。裸婦画も多く描いています。肖像画では、全体を丸い線で描いていて私は好きです。いつまでも眺めていたくなる絵です。何より、一途なジャンヌ・エビュテルヌがモディリアーニを追って自殺してしまうくらい、彼の才能にも心酔していたことが印象的なエピソードですね。しかし、1歳2か月の娘を置いていくことに躊躇しないのが理解できませんけれど、モディリアーニの作品を見ているとジャンヌの画ばかりで、お互いの思いが伺えます。
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