前回は、日章丸事件を書きました。
その後の佐三を綴ります。

「日本独自のエネルギー政策が必要だ」
と通関した彼は、自前の精油所建設の乗り出します。
1957年に山口県徳山に建設されます。「海賊の最期の城」とも言える場所でした。
資金がないなか、

「金がないなら知恵をだせ、時間がないなら汗を流せ」
とげきを飛ばし、通常3年かかる工事を僅か10カ月で完遂させました。
この驚異的なスピード建設もまた、世界を驚かせました。
しかし、国内の石油業界では佐三は常に孤立していました。
政府や業界団体が、石油の生産調整を行って価格を維持しようとすると
佐三は猛反発しました。

「消費者のために安く売って何が悪い。」
佐三は、石油連盟を脱退しました。
たった一社で生産調整を無視して、フル操業を続けました。
業界からは「協調性がない」「破壊者だ」と非難されましたが、佐三は晩年までその姿勢を崩しませんでした。
「互譲互助」お互いに譲り合い助け合うを社是としながらも、
「消費者の利益」と「日本の独立」に関しては、一歩も譲らなかったのです。
もっと簡単に言うと「休みなく、100%の力で動かしている状態」
宗像大社の再建にも貢献しています。
ある日立ち寄った、社殿が戦後の混乱で屋根は朽ち落ち雨漏りがし荒れ果てていました。境内に雑草が生い茂り神がいる場所とは到底思えないありさまでした。
居合わせた神職に対して

お前たちは神様にたいして、申し訳ないと思わないのか!
こう言いました。その声は震えていました。

「日本人が神を敬う心を失い、伝統を粗末にするようになったら、この国は終わりだ。」
「経済が復興しても心が貧しくては何にもならない」
当時、出光興産自身も巨額の借金を抱え、決して余裕のある状態ではありませんでした。しかし、佐三は、

「私がやる。金はなんとかする。だから、すぐに再建にかかれ。」
「昭和の大造営」と呼ばれる、復興事業の発起人となります。
資材をなげうち全国の財界人に頭を下げてまわりました。

社長、神社のことより、まずは自分の家を立て直してみてはどうですか?
実は、佐三の家は質素な日本家屋のままでした。雨漏りさえしていたと言います。

「私の家など雨露がしのげれば十分だ。神様の家が雨漏りしているのに自分の家を立派にする馬鹿がどこにいる」
1971年、宗像大社はよみがえりました。美しく朱で塗られた社殿をみて頷いたと言います。

「これで日本の神様も安心されただろう」
彼が守りたかったものは、建物ではなく、日本人が古来大切にしてきた「祈りの心」そのものだったのです。
佐三が芸術を通して守りたかったのは、単なる「古い物」ではなく、そこに宿る「日本人としての独創性と美」、そして「人間としての心の豊かさ」でした。
80代後半になると、眼病が悪化しほとんど視力を失っていました。87歳のときに思い切って、手術を受けます。手術は成功し見えるようになりました。
日田重太郎氏の葬儀は社葬で行いました。佐三にとって、両親以上の人物でした。
1981年3月7日 95年の生涯の幕を閉じました。
その死に際し、昭和天皇が御製(和歌)を詠まれています。

国のためひとよつらぬき
尽くしたる
きみまた去りぬ
さびしと思ふ
一民間企業の経営者に対し天皇がこれほど個人的な感情を込めて歌を詠むことは極めてまれなことです。
出光佐三氏 金言
「黄金の奴隷になるな」
「人間尊重」
「日本人にかえれ」
「日本を愛し抜いた」海賊と呼ばれた男の生き様は如何だったでしょうか。
私は、心がひどくうたれました。明治、大正、昭和を生きぬき、
日本人として、奴隷にならず、独立すべし、
神を敬う心を失い伝統を粗末にするようになったらこの国はおしまいだ、
といった現代に通ずる本質を見抜いていたと思います。
出光佐三が貫いた、国を愛する心を手本に現代が続いていくよう願います。
